お侍様 小劇場

   “声を聞かせて” (お侍 番外編 53)
 


        



 様々な機器の微細な稼働音が重なってのこと、しんと静かというわけにはいかないらしいが、されど無気質で生気の薄い空間だ。旧家のこととて、老朽化から使わぬようにと封鎖されていた棟もあり。ここもそんな中の1つだと、小さいころから言い置かれていたため、内部の半地下にこんな施設があったとは、ここで長年暮らしていた七郎次も知らなかった部屋。作りこそは 古めかしくも大理石をふいた床と漆喰の壁による空間であったが、そちらは衛生面から改装したものか、いかにも無菌であろう塗り直した壁に囲まれ、先進の機器を集めた集中治療室風の一室が、分厚いガラスを大窓のようにはめ込まれた壁の向こうにあって。直接の光も刺激になるのか、天井間近に居並ぶわずかな窓さえ暗幕で封したその上で、青白い灯で照らされた大きめの寝台が中央に据えられていて。仰々しい計器へと繋いだ配線やら投薬用のチューブやらで雁字搦めにこそなってはないが、心音を拾うべく脈拍と血圧と脳波とを監視するためのセンサーと、何かしらの輸液を補給しているらしい点滴とを、横たえられての眠ったまま受けている彼こそは。


  「……………勘兵衛、さま?」


 豊かでくせのある深色の髪を周縁へと散らした頭や、ほぼあらわな首元から覗く肩口。体の脇へ力なく延べられた腕の、肘の先の前腕にも包帯が見えて。口の端や片やの頬、額の端にも、まだ癒えぬのだろ新しい傷が赤々としていて痛々しく。治療療養のためのお仕着せ姿で、夜具の中、ああして横たわっているところなぞ、どのくらいぶりに見ただろか。しかも、

  ――― 意識が戻らないままだなんて

 久々にまみえた御主の、思いがけない凄惨な姿へと。意識をほぼ持っていかれていた七郎次は、果たしてどこまでまともに聞いていられたものか。征樹が特別にザッと浚ってくれた今回の務めというのは、とある独立国家の 政府筋の要人の令嬢姉妹の護衛だった。その国では、政権を傾けたいとする一派が秘かに決起していて、大統領派の閣僚の中、最も人民からの信頼厚き副首相を籠絡したがっており。だが、そこが人気の由縁でもある、戒律や道徳に清廉な、正統派の彼はなかなか落とせるものではなくて。そこでそんな彼の娘二人を、計略をもって雪の渓谷へ招くという企みが始動。こちらの要求を呑まねば、その途中で事故に見せかけ、彼女らを遠隔地にて亡き者にするという脅しを構えた。本来ならばその国の保安組織が対応を担うような仕儀だが、既にその内情はクーデター派の側からの侵食を受けてもおり、公明正大であるべき機能も、どこまで看板通りか信用がならぬと来て。不穏当な傾向を察知した時点からの警戒をしていた大統領陣営ではあったが、確証なくては動きも取れず。通知なくして仰々しくも戦闘機など送り出せば、そのまま移動中のヘリごと落とされかねぬし、表向きの説明も求められよう。そうまで追い込まれた副首相氏は、それでも脅迫には応じずにいて。そして…ヘリは消息を絶ってしまったのだけれども。

 『それは慎重に、
  まずはと こいさんら(お嬢様たち)からの信頼を得てはった勘兵衛様でな。』

 ぎりぎりの土壇場までは、すべて水面下の秘密裏に進めねば、相手に悟られたなら、いっそのことという強硬な姿勢を取られかねない。相手もそうだったろうが 実は政府の側もまた、大きな暴動の引き金を引くよな事態は極力避けたい。よって、実際に護衛対象の間近にまで近づけたのは、勘兵衛ただ一人というのが限界であったらしい。どんな芝居や仕掛けを用いたか、ほんの数日で執事として頼られる存在となるほどの接近を為した惣領様。そうして、お友達に招かれたという姉妹の、渓谷でのスキー旅行へも同行し、遊覧仕様のヘリへと同乗。ところがそのヘリの操縦士が、敵方の傀儡も同然な存在であり。交渉決裂との報を聞き、自爆同然にヘリを爆破させてしまったという。

 「……。」

 そうまでの大事件・大事故でも、報じられねば“無かったこと”だ。そんな混迷を孕んでた、実は不安定な状態にあった政府だった内情を明かすのは、国の威信にも関わるし、治安維持への助力と称し、諸外国が介入して来ないとも限らない。もしもそうと運んだならば、独立したての新参国家ゆえ、列強に付け込まれ、不利な条項飲まされるのは目に見えていて…云々と。とんでもなく高次元の事情から、お身内からも表沙汰には出来ないでいた一大事。そこでとの依頼を受けたのが、証しの一族だったという運びでもあって。
『実行犯とのやりとりがどう運んだことか、現場におらなんだ援護の面々には判らんままやそうでな。』
 その道では一流とされとる、勘兵衛様の老獪周到な交渉術があったとて、耳に入らへん小者相手ではどもならん、と。これでも感情は抑えているらしい征樹が、何かしら堪えるように唇歪め、肩をすくめて見せたのが印象的で。
『それでも、』
 炎上するヘリから宙空へ、お嬢様二人を抱えて一か八かという脱出をなした勘兵衛を、無事に開いたパラシュートごと回収しおおせたはずだったのだが。いきなり襲い来た惨事に、まだ十代と幼い二人の、姉の方だか妹だったかパニックを起こしてしまったようで。抱えていたところから取り落としかけたのを、乱暴だったが救援機へと放るのと入れ替わり、自身の身を虚空へ投じた勘兵衛だったそうで。反動で遠のきはしたが、まだパラシュートの幌は開いていた。救助機の起こす風圧に巻き込まぬよう慎重に、だが、出来得る限りの大慌てで追って、回収し直そうとしたところが、

 『高度が下がり過ぎとった。渓谷の氷壁に したたかぶつかってしもうてな。』

 咄嗟の受け身くらいは取りもしたろうが、そんな衝撃に遭ったせいで、とうとうパラシュートの傘も一気にしぼみ。途轍もない高度を滑落しかかるの、ハーケン代わりのクサビのような投げ得物、クナイをしぼみ切ってたパラシュートへと投じ、それで何とか引き留めたというから、援護の者らもどれほどの恐慌状態にあったかが忍ばれて。そんな混乱の中で回収された惣領様は、どれほど頑丈なお方なのか、それがお命に障るほどもの大怪我こそ負われなかったのだけれど。

 『意識だけが、ずぅっと戻らへんのや。』

 脈にも脳波にも異状は無いし、痛覚触覚などなどの感覚も健在な様子。代謝にも生体としての常態しか見受けられぬと、どこもかしこも問題はないのに。どういうことだか、意識が戻らぬ。植物状態というものでもなさそうで、恐らくは…凍土の壁へと衝突し、そのまま滑落しかかったという極寒刺激から、逞しき保護本能が作動して仮死状態に入るかどうかしたのかも。こんなことへの実際例へ当たったことがなかったからと、何とも断言は出来ぬ事態だと言い張った医師団が、様子見の態勢を延々と続けさせての、はや五日目…というのが、此処で起こっていたことだそうで。家族同然の七郎次らを含め、外部の誰とも接触も連絡も許すことが出来なかったのは、まだ務めが終わってはないから。依頼された某国へは、令嬢たちは依然として“行方不明”状態だという報告だけを飛ばしているらしく。

 『……まあ、そんなことはこの際どうでもええ。』

 命懸けてのお務め相手に、豪気にもそんな言いようをした、西の総代・須磨の良親は。話を聞いているのかも怪しいほど呆然と、ガラス窓の向こうをばかり見つめる七郎次の肩を叩くと、

 『俺らはあんたへ懸けたいねや。』
 『  ………?』

 振り返ったのも機械的な動作という、見るからに呆然半分。言われた意味が分かりかねるのだろう、表情が止まったままな金髪の美丈夫の、虚ろな青い眸を覗き込み。良親がうんと大きく頷いてやる。そして、


  『勘兵衛はんへ話しかけたってくれへんかな。』
  『  ………え?』


 映画や小説やあるまいにて、お医者せんせえらも取り合うてくれへんかったんやけどもな。何の、匂いや音や肌合いや、そういう五感の方こそ、筋立てて格納されとる“記憶”より ようさんの情報と繋がっとって、ずんと深いトコのもんでさえ、ダイレクトに引っ張り出せるいう説がある。

 『人間は機械と違ごうて、タンパク質基盤のアナログな存在やからな。』

 刺激という外部情報は、神経繊維や脳内では電気信号でやりとりされているのだ、とか。感情というのも所詮はそれが自分への快か不快か、安心か脅威かのイエス・ノーを組み合わせたものに過ぎない、とか。今やヒトの心のシステムまでへ、科学的な分析があれこれ進んではいるけれど。微妙な立体感や質感、色みのかすれや音の余韻の妙なる響き。先進のデジタル技術を用いることでの、その解析や再現の技術が進んでも。職人さんの鍛え上げられた感覚どころか、ものによっては生まれたての赤ちゃんにさえ、敵わない部分はまだまだ多く。よって、膨大なそれを格納された脳を揺さぶる効果の出よう、目覚めに必要な刺激とやらは。化学成分がどうのとか、ナノ単位でどのくらいとか。そういう理屈をどうのこうのと持って来の、医学的処置とやらのみを続けるだけじゃあなく、

  いっそ、本人の記憶へ深い安堵を刷り込んだ、親しみ深い“当人”が触れたなら。

 その刺激で目覚めはせぬか。生者の世界へ戻らねばとの、意欲をつつくことにはならぬかと、こちらもそれなりの根拠があって持ち出したのだが。
『その説得…ゆうか陳情を、どうあっても聞かへん石頭どもやったさかいにな。征樹に言うて“丁重に”この部屋から いんで(出て)もろてたトコなんや。』
 後日になって、その顔触れの中に、勘兵衛が急ぎ目覚めては困るとの依頼を隠し持っていた者が混じっていたことも判明するのだが。そのくらいは、織り込み済みだったからこその、強引な撤収を丁度敢行中だったのだそうで。そういった実情を明かしてもらったその末のこと、

 「………。」

 一応の清めにと湯浴みをし、用意されてあった白衣に着替え、髪も丁寧に結われての引っつめにして。そろとだけなら、手足や顔へも触っていいからとの許しの下、無菌の集中治療室へと入ることを許可された七郎次であり。彼だけ唯一居残っていた、ここ 駿河の典医でもある老医師・玄斎殿と、良親や征樹、久蔵らが窓越しに見守る中。誰もいないも同然の空間へ、恐る恐るに足を運び入れている。室温や湿度も快適なそれへと保たれているのだろう、かすかに消毒薬の匂いがする室内は、だが。気のせいだろうか、見栄えも居心地も少々寒々しくて。脈拍を拾っているのだろう、3分割画面のそれぞれへ波形が浮かんでは左へと流れゆく、小型のモニターの前を通り過ぎ。そろりそろりと近づいた、がっしりした作りのパイプベッド。上背があって体格のいい勘兵衛には、不自由なさそうなサイズのそれだったが。無地のシーツのあまりの白さや、観察用だろう青白い光に照らされたお顔が、こうまで間近に寄ったのに、まだまだずんと遠くに見えてしょうがない。どんな処置をも受けつけず、眠り続けるばかりの御主。間近にいるのに、なんて遠い人なのか。

 「………。」

 ああでもそれって。日頃の自分たちへも通じてないか? 肌を重ねるほど、相手の熱を取り込むほどにも密着していても。つないだ手を放すことの、何とたやすい間柄であったことか。それ以上を欲しがってはいけないとする、そんな気持ちの表れか。意識してこちらから、その手をシャツを、指を立てまでしてからめての、掴みしめたりすがったりするのは極力避けてた七郎次であり。そして…勘兵衛の側にしてみても。正面からの視線や想いへ、七郎次の側から拒絶をさせるは気の毒と、慮ってくださってのことだろか。視線を合わさぬ向背から、そおと この身を抱きすくめる癖、いつの間にかついており。

  ―― そんな自分がかける声が、果たして届くものだろか。

 自然な仕草で、胸元へと手がいく。白衣の襟をぎゅうと掴んでしまうのは、すぐ傍らに誰もいない孤独と焦燥から。ダメだったらどうしよう。私なぞがそんな力、持っているはずがないのだと、あらためて知らしめられるだけのこと。こちらからどんなに大切だと思ってたって、勘兵衛様からは…使い勝手がいいだけの、可愛げのない存在でしかないのかも知れず。

 「  ………。」

 それでよかったはずなのにね。なのに、どうしてだろう。胸が、喉が苦しい。目覚めの切っ掛けという、お役に立てなかったらどうしよか。夜な夜な同衾していても、所詮はその程度の存在かと。そんな事実を突きつけられるようで怖いのか? そんな色々に翻弄されてたのが、ふっと。鳴りをひそめる。


  「………勘兵衛様。」


 つい零れたのは…独り言みたいな小さな声。無心に眠り続けるお顔に、よそよそしさを感じてしまい。だが、それよりもと気になったのが、頬に残った擦り傷の痛々しさだ。ぶつけて擦ったそれなのか、縁が青くなりかけている上へ細かい傷が刻まれていて。ああどんな衝撃に叩かれた御主なのだろ。援護の人々が頑張ったと聞いたけれど、勘兵衛様だって諦めはしなかったはず。だって、彼が見聞きしたという事実が、どんな証拠よりも物を言う。どんな窮地にも居合わせて生還し、悪行の成就を妨害しつつ、言を左右に出来ぬ証拠に自身がなる。それが“絶対証人”たる由縁であり、なればこそ…絶対に諦めないで帰って来ること、義務づけられてるお人。

 「……。」

 輸液の点滴のためか、薄い上掛けの上へと出されてあった片方の腕。筋骨のしまった、いかにも頼もしい腕であり、やはり大きくて重たげな手も、ゆるく開いて置かれたまんま。あまりに無造作に投げ出してあるのへ、そろと手を延べ、触れてみれば。

 「あ…。」

 思いの外に暖かくて…それが。ああこの人はやはり、自分の大切な勘兵衛様だという実感を突きつける。その身を倒し、お顔を覗いて、

 「勘兵衛様。…勘兵衛様?」

 二度ほど、はっきりと呼んでみる。揺すってはいけないと言われたのを思い出し。胸元へ延ばしかけた手を戻すと、さっきは触れただけの手を見やり。後から何か掴ませるためのように、親指が離れて出来てた空隙へ、こっちの手、指を差し入れてやわく握り込み。

 「勘兵衛様。」

 もう一度、呼んでみたけれど。

 「………………………。」

 どんなに間合いを数えても、瞼も震えず、吐息も変わらぬ。




 【 そしたらおシチ、不便で悪いけど、何日か其処で寝起きしてもらえるか?】
 「…え?」

 失望に肩を落とした七郎次へと掛けられたのは意外な提案で。だが、
「見ていたでしょう?」
 何の反応もなかったのに?と、暗に問いたいらしい彼へ向け、それはあっけらかんとした良親の声がサバサバと応じた。

 【 そんなもん、一発で眸ぇ覚めとったら苦労せぇへん。】

 何日かかってもええから、そうやな、家へ帰ったような錯覚させるつもりでかかってくれへんか? それこそが狙いだと言わんばかり、ガラス窓の向こうからにんまり笑った西の総代へ、

 「あ……。」

 ひりひりと痛む胸へ、じんわりと滲む温かな何か。こんな大変な一発勝負を、それでなくたって憔悴していたのだろ七郎次へ、いきなり強行させたりゃしませんということか。何から何まで二段オチ三段オチにしてしまうところが、ともすりゃ心臓に悪いけれど。それでも…深いところをまで ちゃんと考えてくださっている、西の皆様方の計らいへ。目元が潤みそうになってのつい、優しくされて泣くなんてみっともないと、今日初めてうろたえてしまった七郎次だったりしたのである。




     ◇◇◇



 特に呼びかけ続けることもないと、玄斎医師はご助言下さり。お顔や寝息やを見届けて、後はそうさな、

 『腕や手を取っててやってくれてもいいぞ?』

 いきなり触れても、何かが飛んで来て掠めたくらいにしか感じないかも知れぬので。今そうやっているまま、手を取って温みを分けてやっててくれるのもいいとの仰せ。

 『身じろぎがすぐにも判るじゃろうしな。』

 そのまま延々と傍らにおれば、そんな気はなくとも“動かぬのが当たり前だ”という感じようになってしまっての、ちょっとした変化にも気づかぬようになりかねぬので。声を掛ける折に持ち替えたりして、ここにいるぞとの自己主張を続けておくれと。やんわりした言いようをして下さって。背もたれのついた椅子を持ち込んでもらい、そこに腰掛けての看取りが始まる。

 「……。」

 静かな寝顔や穏やかな呼吸は、本当にただ眠っているだけにしか見えなくて。ああそれでも、久し振りに見る寝顔だと。窪んだ眼窩や通った鼻梁、少し立った頬骨といった、いかにも壮年の男というパーツで構成された、少々気難しそうなお顔をじっと見つめる。そういえば…晩はいつだってこっちが先に沈没するのと、朝は朝でとっとと寝台から抜け出す七郎次なものだから、勘兵衛の寝顔というもの自体、久々に見るのではなかったか。視線が合うのがいたたまれずに、昼もあんまりじっと見つめ合うということはしないから。結果、最近はこのお顔をこうまで凝視してはいなかったような。彫が深い目許の翳りや、やや張った頬の高さが、実際の年齢以上にその風貌を老けさせてもいるけれど。何事かを考え込む横顔は、それを縁取る線が意外なほどに繊細で。伏し目がちになっていたものが、こちらに気づいて目線を上げる一瞬の色香とか、強い意志を保つ心持ちをそのまま示す、口角のきゅうと引きしまった頑固そうな口許などなど。凛々しいところや愛しいところは、本当にいつまでも変わりないお人だなと実感する。決して外見に惹かれたわけじゃあないけれど、大人びたそれらの要素は、初めて逢ったころからもう既に、今と変わらぬ趣きで おいでだったんじゃあなかったかしら。包帯の覗く胸元の厚さや、肩の雄々しさ。忘れた訳じゃあないけれど、こんなだったかな?とばかり、記憶の中のお姿を思い直してみたりもし。

 「……。」

 時には格闘もする、断崖やビル壁を登りもする。鉄パイプや棍棒を得物としての、乱戦を掻いくぐることなぞ日常茶飯事だそうだし、崩壊しかけの旧居から、生き埋めにならぬよう飛び出すような脱出を強いられることもザラ。そうそう、外国に限らずとも、拳銃が狙ってるような物騒な事態へも駆り出されるお人であり。そんなこんなの蓄積か、単なるサラリーマンのはずが、それは堅い手のひらや指をしている勘兵衛で。甲の側の指の付け根は骨が立ち、黙っておれば格闘家で通せそうだが。持ち重りのする武骨なこの手は、ただの乱暴者の手じゃあなく、そりゃあ頼もしい大人の手でもあって。武道を齧っているその余燼か、身ごなしやら手の動かしように品があっての折り目正しく。なので、大きな缶だの重そうな荷物だの、がっつり持ってるその見栄え、不思議と綺麗で様になっていたりする。ああこれが、しゃにむじゃあない、ゆとりのある大人の人の手かと。何かの折々なんぞに、ふと気づかされて来もしたもので。

 「…。」

 いつだって守られていたし、時に欲しいと求められもし、そのどっちの折でも、勘兵衛の有り様と意志をそのまま映していたのがこの手ではなかったか。様々な務めを完遂して来た、こんなに強い手が。だのにこの自分へは、いたわるように守るようにと、やさしい触れようしかしなかった。どんなに強引に肩を掴んで引き留めたとて、気持ちはするすると逃げてくこと、知っていた彼だったからなのか。

  “……変なところが弱気な人ですね、勘兵衛様。”

 雄々しくも精悍な、打たれ強い彼らしくない種の“優しさ”だと、今になって気がついて。返事がないのを承知の上、ねぇ?と胸の中から訊いてみる七郎次だったりする。






   ……………………………………。




 時計がない部屋じゃなかったが、そんな経過なぞ感知の外へと追いやって。飽きることのなくのずっとずっと。勘兵衛の顔を眺め続けていた七郎次であり。最初の1時間が経過したおりとそれから、つい先程にも、玄斎医師が触診にと入って来ただけ。二人きりの静寂を、だが、苦もなくのたやすく、見送ることのできた七郎次であり。それでも、

 「………シチ。」

 埃や菌が入らぬようにと、空圧調整室を挟んでの二重構造になっている扉から、やはり白い上っ張りを羽織った久蔵が入って来、

 「代わる。」
 「え?」

 何のことだと訊いたおっ母様へ、壁にあった時計へ視線を流す久蔵であり。短針が示すは既に宵の七時という時間。

 「よぉも根気の続くこっちゃな。」

 窓の向こうでも良親が苦笑を向けている。マイクを使っちゃあいないので、そんな呟きは七郎次へも届いてはおらず、面と向かって言う気もないのだろうけれど。
「よぉ尽くすお人やいうのんは知ってたけど、降参しますて頭が下がるレベルやの。」
 ただぼんやりしているのじゃあない。どれほどのこと、大切に思っている人を見守っているものかというのが前提。起きてと揺すぶりたいだろに、このまま意識が戻らなかったらどうなるのかと不安でもあろうに。勘兵衛自身から“待っていろ”と言われでもしたかのように、じっとじっと見守り続けているなんて。

 「でも、まだ平気です。」

 彼にしてみりゃ、どんなわずかな間合いでも、目を離すことの方が落ち着けないに違いない。離れた間に容体が変わったら? 目覚めればいいが逆の事態が起こったら? 片時もとは正にこのこと、一刻だって離れたくはない、勘兵衛から目を離したくはない七郎次なのであろう。まだ保ちますよと小さく微笑った七郎次だが、久蔵は久蔵で頑として譲らない。彼も勘兵衛が心配じゃああるが、それ以上に七郎次の身が保つかを案じているらしく。
「晩にはまた、代わればいい。」
 だからと、空いていた方の手を取って、ほら立ち上がってと促す彼だったので。どうしたものかと戸惑ったものの、久蔵は こうと運んだ…勘兵衛との再会が果たせたそもそもの功労者でもある。
「では、少しだけ。」
 椅子の背もたれから身を浮かし、立ち上がりがてらに 名残りは惜しいがと手を離して。そのまま久蔵と入れ替わろうとしかかった七郎次の手を、


   ぐいと、


 指の背の側から、まとめてひと掴みにした人がいる。思いの外 結構な力だったのと、立ち上がり掛けた間合いと重なったこととから、引っ張られたような格好となっての、椅子の上へと引き戻されて。


  …………………え?


 一体なにが起きたのか。驚きが勝
(まさ)っての混乱が、それでなくともゆるやかなそれになっていた思考を止めかけたものの。はっとして視線を戻したのが こなた様の寝顔。お髭をたくわえた顎先から口許へと逆上り、頬と鼻梁のそのまた上、印象的な目許へ至って…見えているものが把握出来ない。重たげな瞼がうっすらと上がって見えはせぬか? それとも これまでもこのくらいは開いていただろか。しっかと握られた手の熱、ごわつく堅さが、だがどういう意味かを やはり把握出来なくて。最初に横たわっている勘兵衛と対面したときのように、ただただ呆然としている七郎次へと届いたのは、


  「………どこへ、ゆく?」


 掠れて覚束ぬ、だが、紛れもない彼の御主の声に相違なく。

 「…………かんべえ、さま?」
 「しち。」

 問うてみれば、返る声が間違いなく自分を呼んだ。乾いた唇はほとんど動いていなかったけれど。同座していて図らずも目撃した久蔵が、
「〜〜〜っ。」
 感極まったか何も言わぬまま、それでも七郎次の肩をきゅうと抱いてくれたから。


  …かんべえさま。
  ああ。
  勘兵衛様。
  なんだ。


 少しずつ滑舌が戻りつつあるお声は、外へも届いたか。背後で何だか慌ただしい気配がしたけれど。そんなことはどうでもいい。ずっとずっと握っていた手へ額を押し当て、次には頬を押しつけて。頑張っていはしたが、こちらもこちらで感覚の何かがどこかで麻痺しかけていたものを、取り戻そうとしておれば。その手が大儀そうに、だが自力で指を折ろうとするのが伝わって来。頬へと導き、押し伏せさせれば、そのままこちらの温みを確かめているのか、見やった目許がやんわりと和む。ああやっぱりこのお人の、起きてるときの眸はくせ者だ。こんなにも胸が痛い、喉奥が痛い。それとそれから、

  「勘兵衛様…。」

 何日もの眠りから やっと戻って来て下さったのだという歓喜が、別な重石までもを氷解させる。あのままだったらどうなったかと、思う端から思考を凍らせ、不吉なこと、考えまいとしていたものが。こたびは弱気じゃなかった手に、強引に引かれてのその弾み。そうやって麻痺しかかってた思考の奥へ、一緒くたに追いやられていた頑迷な想いまでもがゆるゆると暴かれてしまったらしくって。


  …勘兵衛様。
  なんだ?

 「……何も言わず、どこかへ行ってしまわないでください。」


 早く奥様を娶ってほしいとかどうとかなんて、そんなのホントは言い訳だと思い知る。このまま二度と目を覚まさずに、鬼籍へ入ってしまわれるかもと思っただけで、胸を潰されそうなほどの恐れを感じた大切な人。この手が再び動いて、どこへ行くのだと制したことで、打ち沈んでた総身を駆け巡った、激しい熱の奔流が、まだクラクラと意識を揺すっているくらい。ああこれが本音なのだと思い知った七郎次であり。なのに…よくもまあ、先へ行けなどと、自分なぞ置き去ってなどと言えたもの。背を向けて去ってしまわれたときに傷つきたくないから、先んじて自分への言い訳をしていただけじゃないか。

 「こんなことを言える立場じゃないのは判ってます。でも…。」

  ―― 何があってもずっとお傍に置いて下さいませと。

 いつの間にか潤みを増していた青い双眸から、こらえ切れなかったしずくがあふれる。ずっとずっとと、繰り返す七郎次だったのへ。

 「………。」

 勘兵衛の表情が少しずつ冴えてゆき。七郎次の手でその頬へ添えられていた手が、するりと持ち上がっての自分からも髪へと触れれば。意を得てのこと、堅く結われていた房を解いて見せる彼であり。首条や肩へまでパサンと落ちた、清かな金絲の感触を。やや大儀そうにしつつも愛でながら、

 「………二言はないな?」

 そんな訊きようをした御主へと、

 「はい…。///////」

 何度も何度も頷いて見せて。つまらない意地を張っていても誤魔化されやしない、これが本心だからこそ。胸が詰まって言葉にならず、はらはらあふれて止まらぬしずく。まるで積年の嘘を洗い流したいかのように、しばらくほど涙が止まらなかった七郎次であったとか。











  「…………う〜ん。今、診察にって邪魔をするのは野暮だろうかの。」
  「どうでしょかねぇ。」
  「それより久蔵や。シチにハンカチ渡しとる場合ちゃうっちゅーねん。」


    お後がよろしいようで………。





BACK / まだちっと続きます


 *何ででしょうか、
  関西弁の会話となると笑いを盛り込まないといかんのとちゃうかと、
  ついつい思う自分がいます。
  例えば、


 あれはギリシャ神話だっただろうか。月の女神がそれは美しい青年を見初め、自分の領地の洞窟に彼を攫って来ての隠すと、その若さと美しさを留めておくためにという咒をかけた。彼は永遠の若さと命を得るのと引き換え、延々とただただ眠り続けるのだ……。

 「…ゆうのんを、つい思い出したんやけどな。」
 「おシチやったらともかくも、
  なんで勘兵衛はんみたいなおっさん攫わなあかんねん。」
 「いやいや いやいや、
  最近は“枯れ専”とかゆうて、
  勘兵衛はん辺りのおっさんに萌える女子の人もおるねんて。」
 「渋い趣味やのぉ。
  あれか? 歴女
(れきじょ)いうのんも、そっからの派生か?」
 「せやのうて。」
 「まあ、シチがそないな目ェに遭うたとしても、
  きっと勘兵衛はんが力技で叩き起こすだけやろけどな。」
 「ははっ♪ 嫉妬に狂うて揺さぶり回すとか?」
 「久蔵が腹ぁ空かしとるさかい起きぃ、て怒鳴ったりしてな。」


   「……ご両人様。///////」


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